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原方屋敷

米沢 愛と義のまち 天地人博2009が開催されている[伝国の杜]米沢市上杉博物館・置賜文化ホールの常設展の中で僕の目に留まったのがこのジオラマである。

このジオラマは、原方屋敷 模型という名前だった。そして真ん中の家のつくりを「直家づくり(すこやづくり)」そして上下の家のつくりを「中門づくり(ちゅうもんづくり)」という。江戸時代には他藩の武士は農業を営むことは禁止されていた。しかし米沢藩の下級武士=原方衆はジオラマの通りに農業も営んでいたことがわかる。

米沢藩Wikipediaによれば(以下引用)「米沢藩は120万石からの大減封を受け、しかも佐渡金山を失って大幅な収入減を受けたが、越後時代から付き従ってきた家臣の召し放ちを極力行わず、6000人と言われる家臣団を維持し、針小棒大な表現ではあるが、上杉家は、120万石規模の家臣団を維持したと云われている。そのために、江戸時代初期から厳しい財政難に苦しめられた。
米沢城は、伊達氏時代からの三階櫓を中心とした平城であったが殆ど拡張を行わず、下級武士は手狭な城下町の外に住まわせて、半農半士の生活を送らせた。このような下級武士のことを原方衆という。」とある。

非常に興味深いジオラマである。(^^)

ニンニク、ネギ、トウガラシ、キュウリ、大豆、ササギ、サトイモ、キク、長イモ、ナス、カボチャ、ウリ、ゴボウ、ニンジン、枝豆、桑などが畑に作付けされており、畑の隙間には栗、フキ、ススキ、カヤギョウ、アンズ、梅、セセナ、ニラ、アサツキ、カキ、ミョウガ、オオバギボシ等が植えられている。
文字通りの半農半士な生活である。そして当時の野菜や置賜地方の食生活がリアルに伝わってくるではないか。

僕も半農半工な生活は一つの理想だと思っている。
田舎に引っ越す本社移転計画もあり、社員食堂(笑)としてのオーガニックカフェも計画している。そういう意味でも妙味深い資料だと感じたのだ。(^^)